ラツマピック天国

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城山三郎『辛酸』

片付けている空き家から出てきた本を読んでみようというものです。

 

今回は城山三郎の『辛酸』です。

 

内容は副題の「田中正造足尾鉱毒事件」のとおりですが、ストレートな田中正造の伝記というものではありません。田中正造がメインとなるのは前半のみとなっています。後半は、田中正造の死後、その遺志を受けついだ青年が主人公となっています。

 

田中正造といえば、衆議院時代の足尾銅山鉱毒事件への激しい追及(そして山縣有朋陸奥宗光黒歴史答弁「ちょっと何言ってるかわからないですけど」)、天皇への直訴ですが、これらについては回想としてちょっと出てくるだけで、小説は晩年の田中正造から始まるのです。

 

この構成に関して私個人は、社会正義の追求を、田中正造という振り切れた個人の特性に帰するべきではなく、田中正造の遺志を受け継いだ青年のように、われわれ普通の人々も追求していかなければならない、という著者の思いがあるのではないかと考えるのです。

 

作中には足尾銅山のむごたらしさに理解を示して協力する弁護士たちも出てきますが、戦いの中で疲弊していき、青年に対し手打ちを勧めるようになっていきます。

その際の弁護士の言葉が印象的で、以下に抜粋します。

 

「田中さんはある意味でたしかにりっぱだった。あれだけの純粋さは貴重だよ。だが、それだけに、どうしようもないところがあった。国家の悪を攻撃するのは結構、県のまちがいを責めるのもいい。けど、たとえ最初にまちがいがあったとしても、いったん滑り出した機構というものは、行くところまで行くんだ。きみら百姓は融通がきかぬ。だが、それ以上に、国家は融通がきかぬ。動き出したら、その動きを真実と思わせるまで動き続けてしまう。その力が計算できぬ田中さん的生き方は悲劇でしかないんだ」

 

不幸なことに、国家の運営に犠牲はつきものですが、恩恵を受ける層と、害を被る層とに、大きい乖離があるのは善くないと思います。今でこそ「公害」という言葉で概念化されていますが、それが過去の問題でないのは、エアコンでお馴染みの某メーカーの大阪での問題でも明らかです。

 

まとめると、この本は、為政者にとっては、一般の人々に決して読んでほしくない本なんだろうなあと思います。

 

少し話はそれますが、NHKEテレでやっている「100分de名著」って結構攻めてますよね。NHKについてとやかく言われている昨今ですが、ブルデューの『ディスタンクシオン』、ル・ボンの『群集心理』、オルテガの『大衆の反逆』など、権力を握っている側にとっては、市民には決して読んでほしくない本をガンガン紹介しているというのは、彼らの意地というものを感じます。

 

 

 

司馬遼太郎『最後の将軍』

空き家から発掘された書物、司馬遼太郎の『最後の将軍』を読んでみました。

最後の将軍-表紙

最後の将軍-奥付

 

司馬遼太郎の『最後の将軍』ですが、これは本のタイトルで、中身のタイトルは『最後の将軍ー徳川慶喜ー』になってるんですね。

さすがの私も司馬遼太郎は存じておりまして、子どものころは斎藤道三を題材とした『国盗り物語』、黒田官兵衛を題材とした『播磨灘物語』などを読みました。

本が好きというよりは、戦国時代が好きだったもので、その流れで読んだのですね。

そもそもなぜ戦国時代に興味があったのかというと、それはシミュレーションゲーム信長の野望」にハマったからでした。

 

しかし、小学生には難しすぎたのか、幕末にはあまり興味を持ちませんでした。

だから、司馬遼太郎の代表作と言える『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『燃えよ剣』などは全く読んでいません。

今回は、空き家で50年近く埋もれていた末、こうして出会えたという縁もあり、読んでみることにしたのでした。

 

司馬遼太郎の作品は大衆への影響がとても大きくて、史実の人物の評価が、司馬遼太郎の作品の中の人物像に左右されてしまうというのを聞いたことがあります。

徳川慶喜は、教養のレベルの日本史だと、

 

・言うことコロコロ変わる

・決戦直前で自分だけ逃げる

・あっさり降伏する

 

みたいな認識だったのですが、この作品の中の徳川慶喜は、

 

・嘘も方便の大役者で雄弁家

・破滅的な内乱を回避するトリックプレー

タイムリープしているぐらい先が見えすぎた

 

という感じに描かれています。果たして本当はどっちだったか、というのを考えるのも楽しいですが、それはそれとして、ただ物語として読んでおもしろいものでした。

大政奉還を幕府役人に説明するときの慶喜の言葉で、

「現状を続けよ、と願う者もあろう。しかしそれはなしがたいことである。現状をつづけるとなれば、政権をなげうつ以上の改革が必要である。しかし、これにも限度がある。たとえばいまのような旗本も大名も廃さねばなにもできぬが、しかしこれはわれとわが身で骨や臓腑を剔出(てきしゅつ)し、切りきざむようなもので、とうていできぬ」

というものがありますが、これ今の話?と思うほどいいセリフでした。

明治維新って、もしかしてまだ終わっていないのではないか、いつか総括しないといけないのではないか、とかなんとか。

 

あと、表紙イラストが素敵だと思いました。風間完という方のものだそうです。

藤本義一『鬼の詩』

空き家から発掘された書物ですが、今回は藤本義一『鬼の詩』です。

 

帯の雰囲気が時代を感じさせます。

直木賞受賞作ということです。

私は無知で不勉強で不器用で猫背で味音痴なため、著者の藤本義一という方を存じ上げなかったのですが、ウィキペディアによると、放送作家でもあり、テレビ番組の司会などもされた方であったそうです。

 

この本には6つの短編が収められており、表題となっている「鬼の詩」も含めて、明治ごろの上方の芸人を描いたものでした。

人を笑わせる芸を突き詰めようと苦悩する芸人の姿を描いたもので、よく現代の又吉直樹『火花』と対比されるそうです。

 

しかし、ヤバさが違います。

表題の「鬼の詩」に出てくる落語家は、最初からちょっとおかしいんですが、子どもの死、妻の死でだんだんその狂気が際立っていき、高座でなぜか電球なめたり、客に馬糞を食べさせられたり、そしてそれが大ウケだったり。でも一番ヤバいのが、ほぼ同じことをやっていたモデルが実在したというところではないでしょうか。

 

おそらくほかの5つの短編も、芸人の間で語り継がれてきた伝説をモチーフに作られたもので、とにかく昔の芸人は、過酷、凄惨。一銭小屋という格安で見られる劇場で芸を披露する一銭芸人という人たちも出てくるんですが、今でいう地下芸人なんてものではなくて、貧乏で精神的にも消耗して、死と隣り合わせの状態で芸を披露しているのでした。

 

今活躍している芸人は、テレビにあこがれて、賞レースのために切磋琢磨しているクリーンな存在に見えてしまいますが、昔は本当に「堕ちる」ものだったんだな、ということが垣間見える作品でした。芸人は堕ちているから縛られないんですが、私たちは縛られている。私たちの本当は縛られたくないという気持ちを、芸人にぶつけたり、背負わせたりすることで、解放させているのかもしれません。